詩篇 145:8

主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。

《パート2》

@今日のメッセージは、先週の日曜日の救いの恵みの引き続きです。

A聖書は、神様は恵み深い方です。それはあなたを恵みたいと願われていることを意味しています。神様は恵みに値しない者でも恵みを与えたいと願っておられるのです。それが神様の御性質です。

B救いの恵みには五つの側面があります。先週私たちは、その二つを学びました。一つは、恵みは神様からの私たちへの贈り物です。そして、二つ、信仰によって恵みは受け取るものです。

C三つ目の側面は:恵みはすべての人へ可能なものです。

 神様は、えこひいきされません。あなたのバックグラウンドに寄らず、あなたの地位に寄らず、あなたの罪にもよりません。あなたがどれだけ信心深いとかないとか、どのような宗教的背景を持っているかとかに寄らないのです。ローマ14:16ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。 モーセの律法の元に生きる人々は誰でしょう? それはユダヤ人です。モーセの律法を与えられたのはユダヤ人です。モーセは彼らの指導者でした。残りの人々である私たちに与えられる前に、正しいことをするようにと神様の方法を与えられたのです。

D  なぜユダヤ人たちは神様からの選民とよばれたのかと考えたことがありますか?神様はのこりの私たちよりも彼らのほうを愛しておられるのでしょうか?いいえそういうわけではありません。彼らの選びには、目的があったのです。他のすべての人々へメッセージを述べ伝えるため、神様がただおひとりの神であることを世界中に告げ知らせるためでした。神様の律法を受け取るよう選ばれたのです。神様の恵みが世界中に届くための一つの方法として選ばれたのです。そのために選ばれたのです。

E    イザヤ426「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。

創世記2218あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

F  ガラテヤ38聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。

G  今や神様はユダヤ人を含む異邦人、キリストに信仰を抱くほかの全ての人たちの教会に、その仕事を託されているのです。神様は、心に信仰を持つどのような人にもそれは可能だと言われます。“主の御名を呼ぶものは全て救われる” 天国には分け前はありません。もし、主の名を呼び求めれば、ほんとうに良い人々だけが救われるとは言っていません。本当に信心深い人たちだけが、頭の良い人たちだけが、もしくは美しい人たちだけが救われるとは言っていません。いいえ、誰でもなのです。主の御名を呼ぶものは誰でも、神様の恵みの信仰を持つものは誰でも、救われるのです。

H  悲しいことには、神様は私たちに恵みの、無条件の贈り物の提供を申し出てくださっているのに、まだ天国への道のために働こうと努力している多くの人たちがいます。彼らの人生の何かが十分に彼らを良いものにしていると言うことで、キリストを通しての神様の贈り物である恵みを受け取る必要がないと考えているのです。

I  人生において、何かほんとに素晴らしいことや興味深いことをしておられるかもしれませんが、それらがあなたを天国へ誘ってくれると考えるなら、間違いです。天国は、完全なものであり、あなたも私もそうではないのです。天国へ入れるただ一つの道は、神様の贈り物を受入れ、全ての人々へ可能としてくださった信仰によって受けることです。

J  四番目の側面は、:恵みはキリストを通してくる。

  ヨハネ117 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 

 なぜイエス・キリストを通してなのでしょうか?なぜイエス・キリストが天国への唯一の道なのでしょうか?なぜブッダではないのでしょうか?他の誰かではないのでしょうか?なぜイエス・キリストなのでしょうか?まず、彼は、肉なる神様なのです。二番目に、入場の代価を支払われたのです。あなたの救いの代価をすでに支払われたのです。だれも他は、そのようなことはなさっていません。十字架上で、あなたの罪の代価を支払われたのです。ただ、イエス・キリストだけが完全であられ、あなたの罪のために死ぬために来られたのです。

K  恵みは値なしであり、そのことについては疑う余地がありません。しかし安くはないのです。イエス・キリストと言う彼の人生である代価を支払われたのです。彼は、あなたのチケットを買ってくださったのです。

L  律法は、私たちが悪いことをしたときに、“あなたは悪いことをした。”と言い。しかし、恵みは言います。“あなたは許されています。さあ、正しい道の方に行きましょう。”

M  ローマ5:15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。 聖書では、神様の恵みを受け入れた人に対する、信じるものへの私の好きな箇所は、“キリストにおいて”というものがあります。この言い方、“キリストにおいて”というのは、新約聖書の中では、85回以上使われています。キリストにおける、神様の恵みを通して救いを見出す誰かに言及しているのです。

N  (カードと聖書の絵)このように説明してみましょう。このカードは、私の人生です、そして聖書をイエス・キリストを表すとしましょう。私の人生には、私が行った悪いことが色々あり、それが天国のような完全な場所に私が住む資格をなくしているのです。私の人生にダメージを加えていることがあるのです。してきた悪いことです。(裂け目を作る)私の過去についてあなたや誰か他の人に知ってもらいたくない恥ずかしい出来事で、もう終わりにしたいことです。(もっと裂け目を作る)私を深く傷つけたことがあり、他の人たちを傷つけた所です。人々があなたを傷つけたり心を害したときがあるのです。(裂け目や印)。私が犯した罪、他人を傷つけた罪深い想いや、行動。(裂け目そしてずたずたにする)色々なやり方で私が自分の人生に裂け目を創り、また他の人たちをそうしてきたのです。人生をぐちゃぐちゃにし、壊され、傷つけられ、恐れに包まれたものを見て、こう考えるのです、“天国にいけるチャンスはないな。全く完璧でないからね”

O  しかし、聖書はイエス・キリストは私の人生から、すべての恐れ、すべてのぼろ、全ての間違い、そしてすべてのつみ深いことを取り除くことができると言っています。聖書では、私がイエス・キリストの元にやってきて、“イエス・キリストさま、私の人生をあなたの前に開き、あなたの値なしのプレゼントである救いのを受け入れたいです”と言えば、“では、神様が私をキリストの中においてくださるのです。(聖書中にカードを置く)

私がキリストの中にいるとき、あなたはわたしの欠点を見出すことができるでしょうか?(カードを中に挟み聖書を持ち上げて)私が恥ずかしく思うことを見出せますか? 私が恥じていることを見出せますか?私の人生を傷つけ、他の人の人生を傷つけたことを見出せますか? 私がキリストの中にいるとき見出せませんよね。神様は私の人生と傷つけられた全ての破片を取り上げられ、キリストの人生の中におかれます。キリストの義において、天国に行け、私自身がなにをしたからではないのです。私は今やキリストの中におり、恵みの目でもって神様は私を見、イエス・キリストの完全性でのみ私を見ていてくださるのです。Iコリント1:30〜31 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです

P   

ガラテヤ2:21私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

Q  もしあなた自身の特典で天国にいけるとするならば、十字架は無駄になります。もし、神様からのどのような助けもなしに天国へ行けるとするならば、イエス様はあなたのために地上に来られ、十字架にかかられなくても良かったでしょう。あのようにして自身を無駄にすることはなかったでしょう。しかし他に道はなかったのです。キリストのうちにあって天国へ入るか、もしくは入らないかです。

R  それは、値なしの贈り物なのです。信仰によって受け取るだけです。恵みとは、イエス・キリストが私たちのために十字架でなしてくださったこと、それが神様の私たちへのなされる全てです。恵みはキリストを通して、そしてキリストだけを通してくるものです。

S    五番目は:恵みは永遠へと広がりをもつものです。             ローマ623罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです

21    テトス37 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。

22  神様の恵みの結果は、未来に続くものです。永遠の人生は、恵みの一つの特典です。恵みとは決して擦り切れることのない贈り物だと言えるでしょう。イエス・キリストと共に、より良く続くのです。聖書は、神様の値なしの贈り物は、神様とイエス・キリストと共なる永遠の人生だと言っています。

23  あなたは神様との永遠の人生がどんなものだか考えたことがありますか?聖書は次のような四つことを言っています。

1.神様の恵みを受け入れた他の愛された人々との再び一致を迎える回復の場所。                                                                                   

2.報いの場所となるでしょう。この地上で私たちが他の人々に仕えた方法や、開発した性質などに対しての報いです。

3.私たちがキリストにおける性質に立って、新しいことをしようとする場所になります。

4.全ての痛み、全ての苦しみ、全ての悲しみ、すべての嘆き、全ての悲痛、すべての落ち込み、などなどから解き放たれる場所です。

 

素晴らしいところです。そしてそれは、神様の贈り物です。

 一つの捕えがあります。:あなたはそれを受け入れる必要があります。あなたが贈り物を取り、その包みを解かなければその贈り物は価値のないものです。イエス・キリストが全ての人々へ可能な恵みの贈り物として作ってくださっているのですがあなたの人生に合わせた、あなたに限定されたものです、なぜなら神様はあなたの必要をご存知なのです。このことをあなた方は知らなければなりません。

21あなた方は今日話をしていることよりももっと良いものにはたどり着きません。イエス・キリストを通しての神様の恵みにあなたの人生を開いてください。それはあなたの唯一の望みであり、値なしです。

22たぶんあなたはこう考えると思うのです、“私のぐちゃぐちゃの人生すべてをもって神様の元にくれば、神様はひどく怒られるだろう。非難されるだろうと思う。裁かれるでしょう。実際私は、ちっとも良い感じがしないだろう。もし、キリストのところにくれば、非難をあびて居心地が悪いような気がする、なぜならどれだけ私が悪かったかを知っているから。”

23もし、あなたがそのように考えるなら、悲しい間違いをしています。めぐみとはこんなものです。イエス様は言われます、“私のところにおいで!”。あなたは罪の重荷と責めから解放されるためにキリストのところに来るのです。神様の恵みを受けることは、開放を受けることなのです。

24聖書の中には、数多くの道徳的罪を負った婦人の話があります。彼女は周りの誰とでも寝ていました。ある日、彼女が誰かと姦通している現場を、宗教指導者に捕えられ、イエスのところにつれてこられました。彼らはイエスの前に彼女を放り出し、非難してもらおうと思ったのです。“神様の律法に大いに反したこの女についてはどう扱われますか?”イエス様は聖霊を通して多分彼女の罪には気が付かれていたにもかかわらず、彼女を非難することはなさらなかったのです。彼女がどんなに悪いことや不健全な人生だったかと言うことを長々お説教をしたりはなさらなかったのです。まずは、群衆を鎮められました。そして言われました。“よろしい、罪のないものから彼女に石を投げなさい。”と。もちろん群衆の中には、誰一人として完全なものはいなかったので皆ゆっくりと歩き去っていきました。そして対して向き合うようになったとき、イエス様は罪意識でいっぱいになったその女を見つめて言いました、“あなたを責めるものはどこにいる

 のか?“ 彼女は言いました、“いえ、誰もおりません、主よ”。イエス様は彼女に二つの意味深いことを言いました。“私もあなたを責めない。行って、もう罪を犯さないように。”これだけでした。

25長いお説教もありませんでした。ひどい叱責もなかったのです。ただ言われたのです、“私もあなたを責めない。さあ、行ってもう罪を犯さないように”と。イエス様は言われるのです、“世界を責め立てるために来たのではない。私は、救うためにきたの  だ。”聖書が言うには、もうすでに私もあなた方も世界は責めをすでに負っていると。ヨハネ318御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 キリストに来ることは、責めをもたらすものではなく、責めからの開放をもたらすのです。これは値なしの、これが恵みです。キリストのところへ来なさい。

26イザヤ3018それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。 幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。 神様はあなたを恵みたいと思われているのです。それに値しない人々を恵もうとされるのが神様の本質です。神様はその恵みをあなたが受け取ることを待っておられます。神様は恵みを与えることを喜びとされます。あなたに激怒されません。神様はあなたに心砕かれています、しかしあなたに家に帰って来て欲しいのです。

27恵みと言うのは、私が神様の贈り物を受け取ることができ、私が行きたいどんな道にも行き続けることを意味しているのでしょうか? 贈り物を受け取ることはしても、送り主を拒絶するのでしょうか? 勿論それはないでしょう。

28ここに二つのとても意味深いことがあります。言われました、“あなたを責めない”。そしてこういわれました、“行って、もう罪を犯さないように。あなたの人生をだめにするようなことは止めなさい。あなたが変わる助けをしましょう”と。イエス様はこうはいわれていません、“あなたの人生をだめにするようなことを続けなさい。神の律法に反することもなんでもしなさい。”イエス様は、こう言われたのです、“行って、もう罪を犯さないように”。

29神様の驚くばかりの恵みは、今まさにここにあります。今日、ここにあなたを連れ出したゆえんです。偶然ここにおられるわけではありません。神様があなたをここに連れ出したのです。もし、その救いの恵みを受け取っておられないのであれば、まさに今、受け取れます。

 

祈り:

心の中でこう祈ってはみませんか? “親愛なる神様、あなたの完全なる天国を労して買い取るほどに私は完全ではないことに気がつきました。私がそこに入るには、唯一つあなたの恵みではいることしかできないことに気が付きました。十分良い者になれるだろうと考えていたことをお許しください。天国への道を労して買い取ることができると考えていた私のプライドをお赦しください。私が必要としているものを与えてくださってありがとうございます、私がその価値もないのに。あなたの許しをありがとうございます、そしてそれを今日求めます。イエス・キリスト様、十字架の上で私の救いのために代価を払ってくださってありがとうございます。信仰によって、今日あなたの恵みを受け取ります。今日から先、あなたに私の人生の導きをお願いします。あなたのことについて、あなたの道について、もっと教えていてください。あなたの御言葉をありがとうございます。そして聖書を。あなたの御名前によってお祈りいたします。アーメン”