詩篇145:8

主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。

@  聖書には、神様は恵みの神であるといわれています。それは、あなた方を喜んで恵まれると言うことを意味しています。神様は、恵むに値しないようなものでも恵みを与えたいと切に思われているのです。それが、神様の御性質です。そのことに感謝すべきです。私もそのような一人であるので、神様が値しないようなものでも恵まれることに感謝します。

A  もし、あなた方が恵みについて理解しないのであれば、クリスチャンの生活を理解することはできません。神様との関係において肝心なことなのです。もし、あなたが恵みについて理解していくと、神様をより近くに感じることができます。恵みについて理解していくと、神様により近づいていくのです。恵みについてより理解すると、神様をより愛するのです。恵みについて理解していくと、神様により感謝するのです。この恵みのシステムで神様は私たちを近くに呼んでくださるのです。

B  恵みとはなんでしょうか?恵みは、多面的な側面のあるダイアモンドです。その局面は色々です。恵みとはこんなもの、と一方面だけで説明の付くものではありません。

C  恵みの一面として、“行いにおける神様の愛”というもの。また、他方、“神様は、私たちがその受けるに値するものを与えるのではなく、必要なものを与えてくださる”のです。私の好きな局面の一つは、“恵みは、神様の愛を、労せずして受けるものである”ということです。

D  あなた方は、恵みと哀れみの違いを理解する必要があります。私たちは、神様と他の人たちへの犯した罪の責めを受けなければいけないのです。哀れみとは、私たちが受けるべきものを神様が私たちに与えられないときのことです。私たちの罪のゆえに、神様の愛と祝福を私たちは受けるに値しないものです。恵みは、私たちが受けるに値しないのに神様がくださることです。

F  多くの人が、恵みを理解していると考えていると思います。あなた方は、恵みによって救われているのです。何年も知っていると思っているのです。しかし、多くのクリスチャンでさえ、恵みによって救われていると知っているのにもかかわらず、そのように行動していないことに気がつきました。実際、行いによって救われでもするかのように考え、行動することに、彼らの人生を費やしているのです。多くの人にとって、恵みによって救われて、良い行いをすることによって天国に行くのではないと知っていながら、人生を完璧にしようと努力することによって神様を喜ばせることを人生の基盤としているのです。そして、神様があなたの全ての行動を見て、それを空の掲示板にペンで書きとめていく、なにか和やかではない親のような方と考えているのでしょう。あなたは神様から受け入れられていると言うことを獲得しなければならないと考えるのです。もし、あなたがいくばくかの良い行いをなすと“あなたは良い、受け入れられる者だ。”と神様がいってくださると考えるのです。そして、もしそんなことができないときは、“あなたは受け入れられない!あなたは価値なし!”と神様が言われると考えるのです。あなた方は、恵みによって救われたのですが、多くの人は、行いによって生きなければならないと考えるのです。

G  あなた方が恵みについてを本当に理解してくると、あなたの人生において多くの喜びをもたらします。それは、世の中でもっとも自由にしてくれるものです。あなた方が、恵みによって生きることを学ばずに2、30年生きることもできるでしょう。私のゴールは、あなた方がただ恵みのことを理解するだけではなく、それを経験することです。あなたが感じることです。あなたの人生で、神様の恵みを楽しむことです。なぜならそれが多くの喜びをもたらしてくれるからです。

H  恵みの経験は多くあります。今日は恵みの基本的な表現についてみてみましょう。基本なくして全体像を捉えることはできません。私たちが神様からの恵みを受けたときに、どのくらい受けたかを定期的に思い出してみることは、良いことだと思います。

I  今日は、神様の救いの恵みについて、5つの側面を見てみたいと思います。あなたが死んだとき、確実に天国へ行くかをどのようにして知るかと言うことです。

最初の側面:恵みは、神様の私たちへの贈り物である。

ローマ3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

“恵みにより値なしに義と認められる”とあります。値なしの贈り物です。多くの人たちは、働きで救われると考えます。天国への道は、十分な良い働きで手に入れることができると考えます。

J  もし、“どのようにして天国へいけるのでしょう?”と、通りで100人に聞いてみたら、多くの違った意見が聞けるでしょう。しかし、多くの意見をまとめると、“天国への道は、買い取るもの”との意見でしょう。このように聞いたことがあるでしょう、それは、“天国への道を手に入れる方法は、良い行いをし最善を尽くすこと”です。もしくは、“ほんとに良い行いに一生懸命に努め、道徳的な人間になるよう努めることだ”と。それか、“悪い行いより良い行いをすることに努め、もしあなたの良い行いの方が悪い行いの積み重ねより高いときには、神様がこう言われるでしょう:‘あなたは良いやつだ。こっちおいで。”これは、全て行いによるものであって、恵みではありません。

K  神様は救いは全くの値なしだといわれていることを理解する必要があります。贈り物のために働くのではないのです。値なしの贈り物です。神様は救いは全くの値なしだといわれます。あなたはそれをかせいで儲けることはできません、買うことはできません、そのために働くことはできないのです。

L  これが、キリスト教と他の宗教との基本的な違いです。他のすべての宗教や信仰の組織は、それが仏教であれ、ヒンズー教であれ、一つの言葉でまとめることができるでしょう。それは、“行う”です。他のすべての宗教に比べ、キリスト教は、唯一つ恵みの上に立つ宗教です。それが、神様があなた方に救いを与えると言われることなのです。あなた方は、それをどんなお金を出しても買い取るものではないのです。他の宗教や信仰団体においては、神様から認められるために何かを行う必要があります。

M  それは色々です。それぞれの組織によって、それは違います。一つの宗教はあることを言い、また他の宗教はまた違うことを言います。あなたは、無上の喜びを、天国を、神様から認められることを得るために何か行うのです。いつも何かをしなければならないのです。規律であり、規則であり、儀式であったりするのです。

N  その一方、キリスト教を一言でまとめるならば、“なされた”の一言です。それは、もうあなたのためにすでになされたのです。イエス・キリストによって十字架の上でなされたのです。あなたの救いのために代価を支払われたのです。あなたの罪のために支払われたのです。もうすでに行われたのです。

O  牧師に“私が救われるために何をすればいいでしょうか?”と聞いた人がいました。で、牧師は答えたのです、“あなたは救われるために何も‘する’ことはできません。”その人はショックを覚えたのです。で、牧師はこう説明しました。“あなたが救われるために必要なことは、もうすで行われたのです。あなたのためにはそれは完了し、確実なものとなっているのです”と。

P  使徒行伝16:30そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。

Q  イエス・キリストはすでに行われたのです。それは十字架の上でなされ、あなたには値なしの贈り物としてあるのです。それが、イエス・キリストが十字架上で“完了した”と言われたゆえんです。彼は、“私は死んだ”とは言われていません。なぜならイエス様は死なれていないからです。今日も生きておられるのです。復活されたのです。今日も生きて働いておられるのです。“それは、完了した”と言われました。“それ”とはなんでしょうか?“それ”とは、あなたの救いなのです。必要としている人々への配られる恵みの計画なのです。それは完了しているのです。神様は言われるのです、“ここにそれはある。値なしの贈り物だ。”と。

R  あなた自身を救うためのあなた自身何かできることは何もありません。あなたは、神様からの値なしの恵みの贈り物を受け入れるだけなのです。

S  私たちは、基本的には何かすることで天国へいけるわけではありません。イエス・キリストによってすでになされたことを基盤にして天国へ行くのです。

21   それは、あなたが貰い受ける中でも最も素晴らしい贈り物です。それ以上に良いものを貰い受けことはないでしょう。もし、あなたが本当に恵みのことを理解するなら、それが値段の付けられないほど素晴らしいものということで受け取るでしょう。あなたの人生の中で貰い受ける、もっともすばらしい贈り物です。あなたへの神様の贈り物なのです。

22   二番目の側面は、:信仰によって恵みはうけとる

 神様の贈り物は、信仰によって受け取るのです。

使徒行伝16:13;安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。

エペソ2:8,9 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 

 

信仰は天国へのドアを開ける鍵なのです。

22恵みは贈り物なのですが、信仰によって受け取る必要があります。もし、私があなたへの贈り物があれば、“ここにあなたへの贈り物があります。$100です。来て受け取って下さい”と言います。もし、あなたが来て信仰によってそれを受け取らなければ、そこにあるままです。あなたが来て、それを受け取る前に私がそれをあなたにやると言うことを信じ信頼する必要があります。

23救いは贈り物なので、それについては自慢できることではないと神様は言われます。ただ神様の恵みにより救いは受け取ることができるのです。神様は言われます、“ただ値なしにあなたに救いを与える。値なしに許しを与える。値なしに天国を与える。”と。では、贈り物に対して何ができるのでしょうか?それについては自慢できることではありません。ただ感謝してそれを受けるだけです。

24ローマ4:16そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。

 

 救いは私たちの行いに立脚していません。神様の約束に基盤をおいています。私たちがどれだけ良いかによりません。神様の恵みによるのです。私たちの行いによるのではなく、神さまの哀れみによって天国へいけるのです。全ての賞賛と栄光を神様が受けるに値するゆえんです。私たちができることは何もないのです。信仰によって受けとれる贈り物です。

25聖書は恵みの真理を表している物語で満ちています。多くの物語があります。第二サムエル9章はメフィボシェテと言う名の何もできない若者の話です。メフィボシェテはヨナタンの息子であり、旧約のサウル王の孫でした。

26ダビデとサウルの元になる話があります。ダビデは次の王になるとの油そそぎを受けました。サウルは当時の王様であり、ダビデに嫉妬したのです。ですからダビデの人生のほとんどでサウルが彼を殺そうとしていました。国中を彼を追い回しました。ダビデは嫉妬から来る殺意を逃れようとその殆どの時を費やしたのです。しかしダビデは仕返しをしませんでした。実際、サウル王の息子ヨナタンとは親友になったのです。もしどちらかが死んだときには、相手の家族の面倒を見るとの密約を交わしていました。後にサウルもヨナタンも戦いで殺されました。そこで、ダビデは王になったのです。サウルの全ての親族はすぐに恐れに襲われ、“サウル王がずっと命を狙っていたダビデがいまや統治しているから私たちを殺すだろう”と考えました。彼らは皆逃げ、隠れようとしました。

27彼らの一人であるヨナタンの息子がメフィボシェテです。乳母が逃亡の途中に彼を背負っていくとき彼を取り落としました。彼の足が折れて、不自由になりました。で、ここになんの資格もなく今や王から仕返しをされるであろうとの恐れの人生を送っていた若者がいたのです。

  

28ある日ダビデが言いました、“サウルの家のもので、まだ誰か施しのできるものはいないのか?”と。彼は、前の王の家族の者たちに恵みを現したいと思ったのでした。彼らは言いました、“はい、います。お一人小さい方がおられます。メフィボシェテという名の何もできないものです。彼は歩くことができません。”ダビデは“彼を連れて来い”と言いました。メフィボシェテの心の中の恐れを想像できますか?法廷に引き出され、“お前を糾弾し、殺す。”と考えている王様がいるのです。しかし、彼が到着しダビデがこういうのを聞いて驚きました。ダビデはこう言うのです、“メフィボシェテ、おまえを受入れ、私の家族の一員とする。これから私と一緒にこの宮殿で過ごしてほしい。わたしは全ての負債をあなたに返す。あなたの必要を満たそう。あなたは毎夜私と共に食卓につき、食事を共にするのだ。私の息子の一人のように扱おう。”これぞ恵みです。

29聖書では、神様は、私たち壊れたものであり、人生において何の資格もなく、ある分野においては無能なもののところに来られたと言っています。私達の感情がおかしくなり、私たちの人生においてたまたまあることがおき、神様が来られて言われるのです。“私の家族にあなたを引き入れたい。私の食卓につかせたい。私自身の家族の一人のように、王の家族として扱いたいのだ。ただ、私の恵みから。”

30神様は、私たちに恵みを与え、恵みゆえにわたしたちを救いを与えられるのです。わたしたちを祝福し、神の家族の一員としてくださるのです。神様は、かみさまのようになることを願われ、ダビデがそうしたように神様の恵みを全てのクリスチャンに現して欲しいと願われているのです。これが、アメリカの多くのクリスチャンが子どもたちを養子にしたり、多くの慈善金を出したりする理由の一つでもあります。