十一献金−繁栄の鍵

パート2

牧師ティム・アッカーマン

マラキ書3:6〜12

6/22/08

3:6 主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。

3:7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。――万軍の主は仰せられる。――しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか。』と言う。

3:8 人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。

3:9 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。

3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

3:11 わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――

3:12 すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。

 

@  二週間前に話しました十一献金についての説教の続きです。もし、聞いていない方は、CDかテープを聴くことができますので、聞いてください。

けれども、急いで、復習しましょう。十一献金は、教会に対してあなたの霊的な養いとケアーのために捧げる、あなたの収入の最初の十分の一のことです。十分の一の主な教えは、旧約の中に見ることができるのですが、モーセに与えられた律法のもっと以前から始まったものです。新約に生きている私たちもまだ十一献金を捧げることを期待されているものと思います。私たちが十一献金を捧げる必要のある6つの理由:1)神様がそれは自分のものであるといわれていることです。2)十一献金は神様を礼拝する一形式である。3)十一献金は神様の働きを支えるための一つの方法である。4)あなたが十一献金を捧げることで、祝福を約束され、あなたから財政的な呪いを取り除かれる。5)十一献金は神様が全ての源であることを継続して思い出させてくれるものである。6)十一献金は自己中心、貪欲、物質主義などに対抗するものである。これが、前回の復習ですが、パート2を今から始めます。

A  十一献金の考え方は、あなたにとっては不思議な感じがするかもしれません。神様の祝福を受けるために捧げなければならないのです。しかし、この霊的考え方と真理は、聖書を通して見出せるものです。許されるためにあなた方は許すべきです。生きるためにあなた方は死ななければなりません。見つけるためには捜さなければなりません。受けるためには、与えなければなりません。神様はまず私たちに手を差し伸べて全てを教え始めようとされています。神様は私たちに声をかけておられます。“私はあなたを救いたい。あなたを祝福したい。あなた許したい。あなたを愛したい。あなたを癒したい。あなたを慰めたい。”等などといわれます。神様は声を掛けられ、神様が動かれる前にわたしたちの正しい応答を待っておられるのです。

B  私自身は、律法を守るとか、旧約の状況に固執するとかで十一をしてはいません。もっとよい理由から十一をしています。クリスチャンとして正当な理由からです。

C  私は神様を愛しているから神様に栄光を返し従いたいので十一をしています。それは正当な個人的財政のためには良い基盤だからです。神様との関係において物質的な幸福とのかかわりにおいても十一をしています。神様は私の供給主であること知っているのでしているのです。代わりに、神様は祝福を約束しておられ、私の物質的なものへの神様の守りを約束しておられます。

あなたへの例として言うのですが、十一として、私は教会に少なくとも10%をささげています。そうです、牧師であっても十一献金を捧げるべきです。献金としてもう10%もしくはそれ以上、色々な宣教団体や人々、働きへ献金しています。私は必要のある人たちへけちでありたくありません。しかし人が本当に必要としているかどうかを理解するということは時として難しいです。聖書は貧しい人や必要がある人を助けることはイエス様に与えることと同じだと言っています。

マタイ253440

25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 

神様に対して気前がよければ、神様も私に気前良くして下さるのを知っています。 ルカ638

6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

 

IIコリント96

9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります

 

 

D  神様の約束は真実なのでしょうか?祝福されたでしょうか?真実そうだと言うことができます。私の人生でたくさんのお金を捧げました。神様はその分を返してそれ以上にくださいました。ものすごい金持ちではありませんが、わたしが必要とする以上のお金を持っています。“あなたが神様以上には差し上げることはできない”といわれています。神様が私に下さることのできる以上のことを、私は神様へ差し上げることはできません。あなたは神様から受ける以上のものは、差し上げることはできません。

E  神様へどのように差し上げるかは、何を差し上げるかということ以上に大事なことです。

IIコリント97,8、

9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

Iコリント133 

13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

 

私たちの態度は、喜んで、感謝するものでなければなりません。私たちは神様を愛し従いたいがために、捧げるべきです。神様は私たちを祝福したいと思っておられます。祝福を持って、私たちは益をこうむるのですが、そのことで他の人をも私たちは祝福するべきです。そのような方法で、神様へお返しするのです。神様は、私たちを祝福してくださるのですが、私たちも、他の人たちを祝福し神様とその名に栄光をお返しするのです。

F  私たちは、十一献金として、収入のまず十分の一を捧げるべきです。神様は、私たちの人生において、まず第一であるべきなのです。神様は、第一であり、最善を受けられるべきですし、神様への最初の十分の一をまず捧げたり確保しておくと、後の90%で自由にしていいのです。しかしながら神様が献金として残りの90%のいくばくかをいつも捧げなさいといわれているかもしれません。このようにして、あなたの信仰と従うかを試してこられるのです。もし、あなたがもう10もしくは20%を捧げれば、その月何をしていきますか?もし神様がそれを捧げなさいといわれそれを捧げたら、あなたの信仰と信頼と従順をもって生きるならあなたが必要とするものをも満たすといわれるのです。

G  神様は、ビジネスマンに日曜日や土曜日の夜遅くには働くなといわれるかもしれません。土曜の夜遅くまでとは、そんなに遅くまで働く人々は疲れていて日曜日の朝教会にこれないということを意味しているのです。ビジネスマンは土曜日の夜や日曜日の朝の仕事の必要を思って心配しているかもしれません。しかし、神様は、あなたの仕事や財産をもって神様に栄光を返せば、あなたのほかの日々の仕事を増し加えようとおっしゃるのです。

H  十一献金は、いつもはあなたが出席している教会にささげられるべきです。教会はあなたの霊的養いをしてくれます。あなたがそこの教会員であるかないかは問題ではありません。あなたが十一献金をした残りのお金で捧げるお金、つまり献金は、貧しい人や宣教師、クリスチャンが神様からそうしなさいと言われてすることならなんに対しても与えられてしかるべきです。もしあなたがしばらくの間母教会から離れたところで暮らしていたら、母教会ではなく、今出席している教会にささげるべきです。もしあなたがそうすべきと思ったら、母教会に送ってもいいのですが、十一献金はその地方の教会に捧げるのです。もしあなたがちょっと訪問した教会であれば献金はしても、十一献金を捧げる必要はありません。

あなたはいつ十一献金をささげるべきでしょうか?Iコリント161,2 

16:1 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。

16:2 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。

I  この箇所はエルサレムに生活している貧しいクリスチャンたちのためにお金を集めているところです。パウロは毎週日曜日におかねをためるように言っています。これは従って良いルールです。私は月一回給与をもらうので、毎月第一日曜日に十一献金と献金を捧げています。もしあなたが毎週給与をいただくのであれば、毎週十一献金をするのが最善でしょう。

J  最期の一つのポイントは、あなたの子どもたちにも、どのようなお金でもあなたや親戚などからもらったお金の十一献金をするように教えていく必要があります。彼らのための十一献金箱をつくりましょう。10%を入れることは、イエス様に祝福に対する感謝を言うことでありイエス様について他の人たちに伝える手助けになることであると教えるのです。日曜日の朝はそれを取り出してきて、教会学校の献金袋にそれを入れるようにさせるのです。

K  最期に、十一献金について学んだあるクリスチャンの証です。その人曰く、“私の十一献金は喜びの経験です。私は多くの教会員が十一献金をしている教会に属しています。私はこの教会に属したときから、十一献金については教えられてきました。何年かは十一献金をしていましたが、それがまれになり定期的なものではなくなっていました。私は端数を切り捨てがちだったものです。わたしが予想しない莫大な支出が有った時は、十一献金を減らしたり、止めたりしたものです。[私の矛盾した理由は]、本当には神様の元へ行くこと、信頼することに躊躇していました。正しく、継続して十一献金をしませんでした、なぜならそうすることで経済的にうまくやっていけなくなることを心配したからです。

L    そのうち、私は奪い取るもの(悪魔)が私のために非難されてはいないと気づき始めました。神様の御言葉の約束は、十一献金をするもののためにその奪い取るものを非難するとあるのです、しかし私のためにはそれは起こっていなかったのです。

M    領収書は予想外にやってきて、私が捧げるべき十一献金より最終的に多額になるのでした。たとえば、時として、車の修理が必要になり、たいがい350$ほどいつも飛んでいき、問題は残るのです。私がささげる十一献金の益分を獲得はしていなかったのです。

N    [これらの経験]の後、入ってくる全てのうちの正確に十分の一を捧げることで、たぶん何も失うことはないはずと決心したのでした。こうしようと良い決心をしたとき、難関を突破したのです。すべての支出に対して足りないことはないと、内側において完全な保証をすぐに感じたのです。

O    私がこの決心をしたその同じ月に、私の母が月々150ドル入れることを申し出てきたのです。その次の月には、仕事での手数料として今までかつてないような多額のボーナスを手に入れました。次の月私の車が相当な価値のあるロードテストにパスしました。それは今まではたいがい350ドルはかかっていたものなのに、少しの修理のため50ドルほどしかからなかったのです。私はついに見たのでした。神様がわたしのために奪い取るものを叱責していてくださっていたのです。

P    私は以前は持っていなかった財産に関する知識を知り始めたのです。わたしが導かれてした小さな投資が素晴らしい利を得ることになったのです。

Q    また以前お金に関する私が抱いていた恐れや不安は、消え始めました。わたしが以前は持ち合わせていなかった財産について、神様に信頼をおいている自分に気がつきました。このことは私が以前はそうはしなかっただろう財産の増加や貯蓄の機会に対しての行動を可能にして、より信頼を持って財産の取り扱いをさせてくれました。

R    私にとって十一献金は変換させられました。以前は気乗りのしないもので、神様への名ばかりのゼスチャーを取っていました。今や私は財産に関する神様の守りを期待する喜ばしい経験をしたのです。神様の私に対する祝福の窓を開け続けてくださる重要な方法として、それを取り扱っています。

S    私が心から望むことは、わたしがそうであるように私たちが完全に、継続して、躊躇することなく信頼するとき、人々が不思議を発見してくれることです。“

21   これは、神様への十一献金を信仰を持って捧げたとき、神様が本当に祝福してくださるかどうかを試して言った人々の何千という証のうちの一つです。

22 教会はあなたの十一献金をなんに使うのでしょうか?第一に重要な使い道は、この地域の福音を述べ伝えるための財源になるためです。二番目に神様のことを学び礼拝する信者と未信者がやってくる、また、この地域における神様を証しするシンボルとしての建物の維持の為です。三番目には、特別の必要のある特にクリスチャンを助けるため。そして、四番目には、教会は受け取っている十一献金から十一献金をするためです。それは、宣教師を助けたり、神様が福音を広げるために使われる教会の計画や、伝道所の組織を助けることによるのです。

24もし、あなたが神様を愛し、従いたいと望んでおられたらこの教会に十一献金を捧げる必要があるのです。もし、あなたが神様の財政的祝福を望んでおられたら、十一献金を捧げる必要があります。もし、あなたがあなたの人生から呪いや奪い取るものを取り去って欲しいと思われるのであれば、十一献金を捧げるべきです。

マラキ310

3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

ではこの部分において神様を試してみよといわれました。あなたがそうした時神様がほんとうに祝福されるかどうかを見てみてください、しかし神様を信頼し十一献金を捧げましょう。期待して十一献金を捧げましょう。神様があなたを祝福してくださることを期待しましょう。あなたのすべての必要に見合うものまたそれ以上のものをくださると期待しましょう。神様の下さることを感謝しましょう。しかし、前にも言ったように、あなたには正しい態度が必要です。もしあなたがいやいやながらしているのであれば神様が祝福してくださることを期待できません。神様への大いなる愛を表しましょう、そして他の人を祝福することを望んでいきましょう。

25私はこの教会の誰が十一献金を捧げているかは知りません。多分ほとんどの人たちが捧げていると思うのです、というのも私がこの教会の牧師になって以来ずっと、この教会は財政的にはとても健全だったからです。しかし近頃この教会が十分なお金を満たしているだけでは十分ではないことに気がつきました。もしあなたが十一献金を捧げていないのであれば、神様があなたにくださるはずの祝福を受け取っていないのです。あなたが十一献金を捧げることでわたしの給料が上がると言うことでいっているのではありません。あなたも役員も毎年の総会で、私の給料の決定権を持っています。十一献金やそれ以上の献金をあなたにお願いするのは、この重要な霊的原則を学んできた私や他の人々と同じようにあなたにも祝福を受けていただくことができるからです。神様はあなたを祝福したいと望んでおられます。神様は神の国をより広げるためにあなたとそのお金を使っていきたいとも思われているのです。

 

祈り:天のお父様、今日また十一献金の原則についてみてきました。これはある人にとっては受け入れがたく難しい考え方かもしれません。私たちの心を開き、思いを開き、霊を開き、十一献金に関するあなたの御言葉を理解できるようにしてください。あなたの御言葉や原則に従うことができるように助けてください、そして私たちの人生から呪いが取り去られ、財政が祝福されますように。あなたは私たちを祝福したいと望まれています、それはわたしたちも他の人たちを祝福することができるようにです。あなたは私たちを祝福したいと望まれています、それはあなたの名が栄光を受けられるためです。あなたの名が栄光を受けられるように私たちを使っていてください。この教会の財政を祝福してください、またこのメッセージを聞いている全ての人たちを祝福してください。主イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン