成功する人生
牧師ティム・アッカーマン
How to Enjoy the Rest of Your Life - Part 8 of 12
ピリピ
3:12-21
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
ピリピ書3章で、パウロは成功する人生について述べています。日本のことはわかりませんが、アメリカでは本屋には、多くの成功に関する本が並んでいます。みんな最新の本が彼らの人生を成功へと導き、問題解決をしてくれるものと思っています。皮肉なことには、多くの成功に関する本の著者は事業や人生における成功を果たしているわけではない人たちです。この世界での実体験のない人たちです。ただ本を書いただけです。
成功について学ぶとき、本当に成功をした人から学びたいと思います。私が成し遂げたいと思うことを、実際成し遂げた人に目を留めたいと思うのです。私たちは指導書からではなく、モデルになる人から成功と人生についてもっと学びたいと思います。
では、私たちのモデルとは誰でしょうか?もちろんそれは、イエス・キリストです。しかし、次には最も成功しているクリスチャンはパウロでしょう。彼は、ほんとに素晴らしい人物でした。精一杯の人生を生きました。意味のある人生をいきました。
ピリピ書3章の中にはパウロの自伝が入っています。最初の11節中では彼の過去に触れています。今日の箇所では、彼の現在と未来について触れています。そこから、私たちは成功の人生を見ることができるのです。パウロは次の彼の例からも私たちを力づけてくれます。(ピリピ3:17)3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
彼の手本はどんなものでしょう?ピリピ3章では、成功の人生について簡単に4つのキーを説明しています。
1.最初のキーは、自己評価:あなたの欠点に向き合うこれは、自分が完全ではないことを自身認めることです。あなたがまだまだ学ぶべきことがあり、成熟するべきところがあることを認め、そのことを理解するのです。あなたの人生の目録作りをするのです。あなたがどこに行きたいかを知る前に、今自分がどこにいるかを知る必要があるのです。あなた自身やあなたの人生で改善の必要のある部分が、どこにあるかに目を留めることからはじめるのです。
パウロは自分の欠点について正直でした。(ピリピ3:12,13) 3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
私にとってはこれは驚きの言葉なのですが、なぜならパウロはこの時点でもう年寄りです。もし誰かが完全な成熟に到達しているものがいると言いたいと要求するなら、それはパウロです。彼は、新約聖書のほとんどを執筆しています。ローマ帝国にあまねくキリスト教を広める責任を持っていました。彼は世界に素晴らしいインパクトを与えました。しかし、パウロは人生の最後に“私はすべてを理解しているわけではない。ゴールにたどり着いた。私は完全ではない。まだ成長の中にある。”と言うのです。ポイントは、成功の人は決して成長することをやめないのです。彼らは、自己啓発中であり、成長の途上であり、広がり、学びの途中にあるのです。年老いたとき、獄中にあっても“まだ、私は完全ではない”と言わせるのです。
今日の人々は、あまりにも反対です。多くのクリスチャンは、決して問題などないかのように印象付けます。彼らは完全なる成功であるかのように印象付けます。彼らはまったく罪なく、問題も負い目もないかのようにです。クリスチャンとして成長すればするほど、不完全な、限界のある、弱い、欠点のあるものであることに気がつくということです。“なんと遠いところまで来たのか”というよりむしろ、 “行くべき道のなんと遠いところだろう”といわなければならない。パウロはこれが成功の人生を送る最初のポイントであると言っています。―――欠点に直面する、正直になる、自信を評価するということです。
H(箴言28:13) 28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。
成功の人々は自分の欠点について正直です。透明性とは感情の成熟性のしるしです。成功の人々とは、彼らが完全なる成功に到達しておらず、まだ行く道は遠いことを認める人々です。多くの人々が、成功することより、繰り返しをすることにが興味があり、彼らの弱さを認めることには興味がないのです。時としてあなたは二つのことを選択しなければならないのです、それは、――他からよく見えることを私は望んでいるのだろうか?それとも、良くなりたいと望んでいるのだろうか?と。
自問すべきことは、“変えるべきことはどこか?”です。個人的目録を取りましょう。私たちは他人の目録を取り、他人の何を変えるべきかを探すのは得意です。私たちは他人のことを批判するのは得意ですが、自分自身の行動や考えを調べるべきです。(マタイ7:1〜5)7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
2.二番目のキーは取り除くこと:以前を忘れる;あなたの過去を追いやることです。
あなたの記憶に操られることをやめるのです。(ピリピ3:13)3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
パウロが言うのは、もしすべて神様が望まれるようであるとすれば、もう昨日のことに時間を費やすことなどはしないというのです。それは過ぎ去ったものです。過去のものです。私の過去は過去のものです。私の罪も、悲しみも、うらみも追いやるのです。過去のものを追いやると、現在に根ざすことができます。成功は、あなたの間違いからの学習と、またそれらの間違いについてのあなたへの赦しを伴います。
(イザヤ43:18)43:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
どのようにして過去に生きないようになるのでしょうか?私たちが今までにしてきたことすべてをほんとうに私たちの脳は蓄えるのでしょうか?どんなことでも私たちは本当に忘れないのでしょうか?どのようにして以前の中に生きない様になるのでしょうか?
それは過去がもうあなたに影響を与えないようにするということではありません。あなたをコントロールさせないということ、もしくはあなたに力を及ぼさず操らせないということです。成功している人たちは、過去から学んでいるのですが、そこに留まっていないのです。大きな違いがあります。彼らは一度過去から学んだら、それを追いやり動き出すのです。過去のことで罪に留まっていないのです。
これは、人間の本質です。忘れるべきことを思い出し、思い出すべきことを忘れてしまう傾向があります。追いやるべきつまらない、ごみのような思い出にしがみつき、そこから学ぶべきことを忘れる傾向にあります。もし、パウロの手本に従いたいと思うのなら、留まるべきでない二つのことがあります。:
1)一つは、あなたの失敗の上に留まらないこと。あまりに多くのクリスチャンがこころの中で、神様がずいぶん前に赦し忘れてくださっているということを繰り返し復誦し続けているのです。彼らは自分自身を赦そうとしないのです。過去にしがみついているのです。サタンの望みは、私たちを過去に留まらせることです。私たちの記憶に操られることです。
パウロは“私は過去を忘れることを学んだ”と言っています。彼の過ちのために自分を罪に定めてそこに座り続けてはいません。ここにおられる誰もが過ちを犯してきています。私たちは後悔するような過去を持っています。皆と同じようにパウロもたぶん彼の心の中にたびたびやってきて後悔するような多くのことがあったでしょう。聖書はパウロは教会を迫害してきたものであると言っています。彼はキリスト信者たちにうるさくつきまとっていました。彼は最初の殉教者、ステパノを石打ちにした男たちの外套を持っていました。パウロは自分の欠点を直視し、以前のことを忘れたので、人生を生き抜くことができたのです。あなたがかつてしていたことでは何もあなたの過去を変えることはできません。涙も、後悔も、自己憐憫も。過去は過去で、終わりました、死んで過ぎ去ったのです。過去についてあなたは何もすることはできないのです。追いやりましょう。過去から学び、追いやりましょう。
2)あなたが留まるべきではない二つ目は、あなたの成功です。それらから学ぶのですが、それらを追いやりましょう。あなたの栄光に憩うのはとてもたやすいことです。過去の行為に見た安全を基本に、過去に生きることは簡単です。“過去の栄光の日々”はそんなことです。追いやりましょう。
成功の問題点は、あなたを自己満足に陥らせプライドに満ち溢れさせることです。そこで、成長することをやめ、学ぶこともやめ、失敗するのです。
ルカ9:62 9:62 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
あなたは車の運転をするのにバックミラーを見ながらは運転はできないでしょう。レースを後ろ向きには走れないです。後ろに追いやります。あなたは何の記憶を追いやる必要があるでしょうか?
3.三つ目のキーは集中です:将来に焦点を当てましょう。もし、あなたがすることが過去を忘れることだけだとするなら、単なる健忘症です。それじゃ成功することなんかできません。成功する人々は、ゴールに方向を合わせている人々です。彼らは将来に焦点を合わせているのです。
13節でパウロは“ひたむきに前のものに向かって進み”と言っています。成功する人々は、ゴールに方向を据えているのです。パウロはたった一つの優先するものを持っていたのです。彼はひたすらゴールを目指しているのです。
現代社会のこの生活の中で人々は、同時に100もの違う事をしようとしています。ほとんどの人は、薄っぺらく広がっています。パウロは何が重要であるかを見つけ出しそれをするようにと言っています。彼は集中力について、言っています。光が散漫になれば、力が弱いものになります。もしあなたが力と光と集中力を得ればそれはレーザーになります。力強いものです。集中の力です。これらの事柄に対するあなたの時間とエネルギーとの集中は重要です。
もし、あなたがプロになりたいと思うのであれば、ここに秘訣があります。――それは、集中です。プロの人たちは、一つのことに集中力をもってします。専門化することです。すべてを知ることはできませんし、すべてであることもできませんし、すべてをすることもできません。
Iコリント9:24 9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
パウロのゴールは何だったでしょう? IIコリント5:9 5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
神様を喜ばせること意外にこの人生で、何の賞を受けるゴールがあるでしょうか。パウロは人生の最後のときに御前に立ちイエス・キリストが“よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかなものに忠実だったから、わたしはあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びを共に喜んでくれ。”(マタイ25:21)
と言われるのを聞きたいと願っていました。
自問する問題は、私は何のために生きているのだろうということです。人生のゴールは何だろう?最も大事とすることは何だろう?もし、あなた自身が自分の行こうとしているところを知らないのであれば、他の誰もそれは知りません。将来に目をすえましょう。
4.四番目は決意です:戦い終えるということです。持続性です。
決意の根幹は:人生において努力なしに何かやりがいのあることが起こり得る事はまず一つもないでしょう。あなたは山に登るのに、海岸沿岸を回っては行けません。沿岸からいけるのは、ただ低地の部分のみです。今もしあなたが沿岸を行っているとするなら、低地に向かっているのです。パウロは“戦い終えるのです”と言っていました。
人生における素晴らしい人々は、非常な決意をしている普通の人たちです。彼らはやめるということを知りません。決してあきらめないのです。
パウロが12節と14節で使っている”追求している“、”一心に目指して走る“という言葉に注意してみましょう。ここでのパウロの一途さを感じます、決意です。ギリシャ語で”追求する“とは”自身を押し広げる“という意味を持ちます。私の持てるすべてを持ってそのために目指すのです。彼は最善の努力をしているのです。
もし、クリスチャンがお金を稼いだり、好きなスポーツをしたり、お風呂に入ったりと同じくらいに、成長することや伝道することにエネルギーを費やすとしたら、いったい何が起こるでしょうか?ある人は毎晩2時間お風呂に入ると聞いたように思います。多分間違いでしょう。もちろんその間、あなたが神様を賛美し、聖書の学びのテープを聴いてとするなら無駄ではありません。もしくはその時間を半分削減して、ノンクリスチャンや親族と聖書の学びの時間にすることもできます。
使徒行伝20:24 20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
これはパウロの人生を言っている箇所です。パウロは中止した、り、あきらめたり、やめたりしないと言っています。神様が彼にたくしていることすべてを経験するまでは自分を追求していくのです。神様が彼を創造された目的を終えたかったのです。神様はわたしをあなたを目的を持って救ってくださいました。パウロは始めたことは終えるんだと言っていました。
私は“放棄する”と言う言葉は嫌いです。それはしまりのない感じの言葉です。また、“不可能”という言葉も嫌いです。神様はすべてのことは可能だといわれます。しかし世界中放棄する人、簡単にあきらめる人で溢れています。仕事をあきらめ、結婚をあきらめ、子どもたちのことを放棄し、関係をあきらめ、夢をあきらめるのです。
パウロは“私はあきらめない。何が起こっても、決して諦めない”といいました。神様が私に最善をしてくださることを望み、私を呼び出してことをなさせたいと思っておられることを完成したいと思っています。パウロが書いた最後の書簡第二テモテでの最後の言葉です。
IIテモテ4:7,8 4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
ほかのどんなことより、死ぬときにはこの言葉を言うことができればと思います。私はレースを走り終え、一生懸命に戦い終え、信仰を守った結果として天国で冠をいただけるのです。冠はかの地においては永遠に続くものです。私はこの地でより、永遠の地での方が長く過ごすのです。パウロは人生の勝利者となりたいと思いました。しかし、それはこの世界の勝利者ではなく、かの地での勝利者です。
パウロは、このことを三つの提案をすることでまとめています。それは、15−16節でいかに踏みとどまるかということを言っています。事にはまり込んでしまった時に最後までがんばる方法です。ピリピ3:15−16 3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
1)あなたの欠点に直面し、将来に焦点を合わせ、昔のことを忘れ、そして終わりまで戦うのです。私たちは皆、成熟したものはこのように行動します。ここで彼が言うのは、決して自己満足しないように、満足してしまわないようにということです。
2)教えを受けやすい心でいる。“神様はあなたにそのことを明らかにしてくださいます”心開くと、神様があなたに教えてくださいます。あなたが教えを請う気持ちを止めたとき、学ぶことをやめてしまうのです。学ぶことを止めたとき、成長は止まります。成長が止まったときは、死んでしまうのです。
3)踏みとどまるべきこと。“私たちがすでに達しているところを基礎として、進むべきです”
ガラテヤ6:9 6:9 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
諦めてはいけません。結婚に、夢などに諦めを持ってはいけません。諦めないでいれば、時が来れば刈り取ることができるのです。
ピリピ1:6 1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
神様が始められたことは、神様が終えられます。神様はあなたを危ない立場に誘って中断したりなさいません。あなたはあなたの分をなし、神様は神様の分をなしてくださいます。あなたは最善をなし、神様が残りしてくださるということです。
どの部分にあなたは焦点を当てる必要があるでしょうか?
あなたがゆっくり座ってあなたの人生における、素直な自己評価をしてみたのはいつが最後だったでしょうか?あなたの結婚生活、仕事、財産、神様との関係、あなたの子どもとの関係。誰でも自分の中の好きになれない部分を持っています。しかし、あなたの欠点や問題を否む限りはあなたの成長はありません。恐れや、後悔、心配などを明らかにしましょう。あなたのできる最も健全なことは、あなたの人生における素直な自己評価をすることと、それを認め、明らかにすることです。
あなたの現在を過去にコントロールさせ続けていますか?あなたの過去に心傷つかせることを許していますか?あなたがそうさせなければ、過去があなたを傷つかせることはできないのです。過去から学び、それを追いやりましょう。
あなたがどうにもできないことをあまりにもたくさんばたばたやろうとしすぎていませんか?たぶん何か削る必要があり、そうすれば大事なことに掛ける時間がもっと取れるのです。重きを置くことに焦点を合わせましょう。“私がなすことはこれ一つ”と言いましょう。
さもなくば、あなたはあきらめる誘惑に駆られてしまうかもしれません。
これらが人生における鍵になる価値です。今朝私たちが目を留めていることは、この教会の基礎になることです。これらが私たちの教会の種類を決定します。この教会は不完全の人々の教会です。パウロのように、私たちは誰も完全なものはいないと言うわけです。もし、あなたが自分は完全だと思うのであれば、それはより大きな問題を持っています。完全だと思う人は、学び、成熟し、変わることを望まない人です。
あなたの過去を気にしない教会です。今現在あなたが何に向かっているのかを気に掛けているのです。それが問題なのです。昨日のことではなく、今日のことなのです。もし、神様が完全な人だけを使ったとすれば、何もなされなかったでしょう。問題は、今あなたがどこに向かっているかということです。今、何に重きを置いているかです。今向かっていることは何でしょう?
ここは、未来に焦点を当てている教会です。私たちはゴールと働きを持っています、この働きの場所にいるすべての人々にイエス・キリストの福音をもたらすために。キリストを知らない人がいる限り、わたしたちはゴールに焦点を合わせ続けていくのです。
私たちはあきらめない教会です。神様の御心だと思う人々や物事についてあきらめないのです。
あなたには、過去を追いやるためにあなた以外からの力が必要です。未来に焦点を当て、続けていくためのあなた以外からの力が必要です。正しいと思うことを最後までし続けることができるように、あなた以外からの力が必要です。その力は、キリストとの関係から来ます。
祈り:天のお父様。今朝のあなたの御言葉を感謝します。人生における成功の方法を教えてくださってありがとうございます。私たちの生活の評価をし、間違いや弱さを認めることを助けてください。過去を解き放ち、私たちをコントロールさせないよう助けていてください。適切で重要なゴールに焦点をあわせる助けをしてください。私たちは個人的にも教会としてもあなたを喜ばせたいと思っています。ですから、あなたが与えてくださるゴールを完全に果たせるように決意をする助けをしてください。イエス様のお名前によって祈ります。
(This sermon is based, in whole
or in part, on a Rick Warren sermon.)