あなたの救いを続けて達成しよう

10/14/07

ピリピ Philp. 2:1213

2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。

2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

 

 聖書は救いについて三つの手段を語っています。一つ目は救いは直ちに起こること。あなたが罪を悔い改め、イエス・キリストをあなたの救い主、主であると信じるときあなたは救われるのです。しかし、救いが過程として表現されているような一つの箇所があります。将来的にも救いが起こるといわれる箇所もあります。三つとも正しいのです。あなたは救われ、救われている進行形ですし、将来的にも救われるでしょう。

あなたがクリスチャンとなるとき、あなたの霊はすぐに変わります。あなたが犯した罪を完全に赦されるのです。すぐにあなたは神の子供になり、天国の市民になるのです。これらのこととほかの多くのことは簡単になります。けれどあなたの多くは全く変わっていないのです。聖書全体を知って理解することはすぐにはできません。すぐに神様を信頼することはできませんし、完璧に従うこともできません、完全な信仰を持つこともできません。これらのことを開発するのには時間がかかり、知識や訓練が要ります。プロセスなのです。あなたの心の救いはプロセスなのです。

今もあなたは年をとり、結果年のせいか、病気のためか、事故であなたは死にます。神様は将来私たちの体の救いを約束してくださっています。

今日は、その救いの過程、プロセスについて話したいと思います。

あなたの人生において何を変えたいですか? 成長する過程で人々がこういっているのを聞きました、“イエス様が私の人生を変えてくださった”と。どのようにしてイエス様はあなたの人生を変えてくださるのでしょう?手術をするとか、洗脳をなさるのでしょうか? 何かざっと切り換えてくださるか、すべてが突然変わるのでしょうか?

神様はどのようにして私たちを変えてくださるかについては、今日色々な混乱する助言がたくさんあります。ある人々は言います、“主を待ち望みなさい”と。それは受身の近づき方です。また、他の人々は“もしそうしたければ、自分にかかっている”と言います。これは積極的な見方です。クリスチャンとして成熟するためには何を望むべきでしょうか? それはすべて私の問題でしょうか、それともすべて神様の問題でしょうか、それとも両方でしょうか?

ピリピ人への手紙では、パウロはまさにこの問題を扱っています。あなたの霊的成長に及ぶとき、神様が一部を負担し、あなたも一部を負担するのです。パウロはこの共同について説明するのに二句を使っています。

“恐れおののいて自分の救いを達成してください。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志をたてさせ、事をおこなわせてくださるのです。”ここで、二つの句“達成する”と“働いて”というのがあります。“達成する”というのは私たち側です。“働いて”は神様側です。私たちは神様が働いてくださることを“達成する”べきなのです。

これは私たちが救いのために“努力する”ということではないのです。それは“達成する”とあります。聖書は“救いは行いによるのではないのです、なぜなら誰も誇ることがないためです”と書いています。パウロはもうすでにクリスチャンとなった人々に対して書いています。彼はもうすでにあるものについて開発することを言っているのです。係わり合いを達成しなさい。もしあなたが再び生まれ変わるのであれば、成長し始めるのです。聖書の中のこの概念について誤解をしているエホバの証人や他の宗教団体があります。彼らは救いについて努力する必要があると考えています。しかし、聖書では救いについて誰も自力で得ることのできるものではないとはっきり言っています。しかしクリスチャンとしての成長、成熟のためには学ぶ必要があると言っています。これがパウロが言っている“救いを達成する”と言う意味です。

では、それは物理的に実際試験や訓練で何をすることでしょうか?あなたは何か訓練やトレーニングによってそんな体を手に入れるのではなく、すでに持っている体を開発するのです。

あなたの救いとは、個々人の課題を意味しています。あなたの成長については個人的な責任があるのです。あなたの救いです、他人のじゃないのです。あなたのものです。個々人のです。神様は、個々人の人生においてのかかわりを達成して欲しいと願われています。

神様は操り人形のクリスチャンを望んではおられません。神様はすべて同じようなたくさんのクローンが歩き回ることを望んではおられません。あなたは唯一無比の個人なのです。すべてを牧師として望んではおられません。もし、すべてが牧師であったなら、賛美リーダーも奏楽者も、日曜学校の教師も、宣教師もそのほか色々もいなくなるのです。ですから、神様はすべてを牧師として望んではおられず、そのほかも同じで、全く同じ牧師も望んではおられません。

“恐れおののいて...”とありますが、神様を恐れる必要はありません。クリスチャンは怖いという意味で恐れる必要はありません。あなたは神の家族です。神様はあなたの愛する天のお父様です。これは神様が私たちのためにそなえていてくださるものを見逃さないようにすることを意味しています。真剣に救いを受け取りましょう:永遠の係わりなのです。あなたの霊的成長よりも重要なことは何もありません。真剣に受け取りましょう。

“...あなたのうちに働いて”とあり、これは神様側の問題です。神様があなたの人生おける変化のための努力をしていてくださるのです。神様は言われます、“あなたがしたいと思うこと、必要のあること、そして何がすべき正しいことかを知る、それらの力を与えよう。私はあなたに力を与え、強める。”と。神様は志すことやしようとすることに力をくださる方です。志と能力をくださる方です。神様はあなたに望む思いや、変える力をくださる方です。

神様があなたの人生おいて、変える働きをするために、三つの道具を使われます。私たちの人生においての変化を達成させるために必要な三つの選択があります。

神様が使われる第一の道具は聖書

IIテモテ3:16〜17

3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

 

3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

 

聖書は私たちの考えを変えます、ですから私たちを変えます。もし本当に変わりたいと思われるのであれば、聖書の中には何があるかを知り、理解することです。読んで、学び、覚え、それについて黙想し、人生に当てはめることです。あなたの人生において、より神様のことばを取り込めば、どんどん変わります。

人々は言います、“全く信仰がなくて”と。それで、私は聞くのですが、“聖書読んでいますか?”と。かれらは“いいえ”と答えます。彼らは何を期待しているのでしょうか? 聖書は言っています。“信仰は聞くことからです、聞くことは、神のことばによるのです。”

2.神様が使われる二番目の道具は聖霊様です。

Q 神様は私達の内に聖霊様を送ってくださいました。ここから変わる力が来ます。

ローマ8;11 

8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 

神様はあなたの人生に力を送ってくださいます。聖霊様は神様ご自身なのです。神様の霊のかたちなのです。あなたが神様に人生を委ねるとき、聖霊様はあなたの人生に入ってくださいます。

IIコリント3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 

神様のあなたの人生においての第一の目的は、あなたを幸せすることではなく、あなたをイエス様のようにすることなのです。

 神様の理想は、神様のことばを通してどのように変えられるかを教えることと聖霊様を通して変わる力を私たちに与えることです。私たちがみことば読むと神様はそれをする力をくださいます。私たちの多くは、なにかを本当に理解する前に、私たちが読んだことを訓練し当てはめてみる必要があります。それが、教師がわたしたちに課題を出したりテストをする理由です。私たちが神様のことばや聖霊様に答えないとき、私たちを変えるための方法として三つ目を取られる理由でもあります。

3.神様が取られる三つ目の道具は環境です。

問題、抑圧、頭痛、困難やストレスはいつも私たちの注意をもたらします。

ローマ8:28,29 

8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 

 8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

 

信じる者の人生においてどんなことも神様の許しなしには起こりません。それらはいつも良いことだけとは限りません、しかし神様はそれらを使ってある様式と目的にあてはめ、良いことに使われるのです。神様の様式と目的です。

私の問題はどこから来るのでしょうか? 私のせいでしょうか? サタンのせいでしょうか? 神様からですか? あなたの人生の問題がどこから来るかは実は問題ではありません。根源がなんにしても、あなたが神様に委ねればあなたの人生の中でそれを使ってくださるのです。すべてのことが良いことへの、ある様式と目的に当てはめ可能なのです。私たちをイエス様のようにし、神様へ栄光を帰すために。

神様が私たちをイエスさまのように変えてくださっているとすれば、イエス様が通られた状況を私たちに取らせようとなさるのです。イエス様は一人でおられたときがありました。イエス様が誘惑されたときがありました。イエス様は落ち込み、怒り、我慢できなくなるよう誘惑されたときがあられました。神様はこのような状況を通ることを許されました。神様がこれらのことを私たちには無しで済ませようとされると思いますか? 私たちの慰めよりもなお私たちの品性に心を掛けておられます。

 へブル5:8 5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、

へブル2:10 2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

 “イエス様は苦しみを通して完全にされた”のです。

 神様は神様のことばを通してまず働かれます、そして聖霊様、そして環境を使われます。たとえば、:聖書は言っています、“へりくだりなさい。主の前にへりくだりなさい。”と。あなたはこれを聖書から読み、あなたの人生において自我を取り除く力を神様にお願いするのです。それが神様の理想の方法です。しかし、神様のことばからへりくだりを学ばなければ、環境からそれを学ぶのです。

箴言20:30 20:30 打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ。

私たちが本当に絶望的にならなければ、なかなか変わらないのです。私たちが問題をただ理解しただけではなかなか変わりません。しかし、変わらなきゃというプレッシャーを感じたり理解するときには大抵変わっていきます。時として、人生において変わるべき必要のあることに、それが具合が悪いと感じるまでは我慢してしまうのです。神様は時々変わるところまで動かすために人生に雷を落とすことを必要とされます。

人生において変わることを達成するために必要とする三つの選択するべきことがあります。

第一の選択は、あなたが何を考えるかを選ぶことです。

霊的成長は自動的なものではありません。ただ受身では霊的にはなりません。変化は選択なのです、私が何を考えるかということについて私が選ぶのです。

箴言4:23 4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

あなたは自分が思う様な者ではありません。しかし、あなたが考えていることがあなたなのです。あなたの考えが人生を動かすだけではなく、考え自体があなたの人生なのです。もし私たちが自分の考えることを写し出す大きなスクリーンがあるとするなら、あなたが何者かをそこに本当に見るでしょう。人生の中において何か変えたいと思うのであれば、まず、あなたの思いからはじめましょう。

エペソ4:23−24 4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、

 

 4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

 

変化はいつも、新しい考えから始まります。変わるという聖書の中のことばは、“悔い改める”という語です。ギリシャ語では“心を変える”という意味です。私が悔い改めるとき、神様についての考えを変える、自分についての考えを変える、世界について、他人について、などなどです。私の味方は変りました。私がクリスチャンになったとき、私の人生におけるすべての見方が変り、事が違って見え始めました。いくつかの昔の考えや価値観への挑戦が始まりました。悔い改めとは神様のなさるすべての御業が良いものであり、正しいということに同意することを意味します。

ローマ12;2 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

もし、変りたいと望むのであれば、あなたの心を新しくするころから始めましょう。心理学者はついこの頃このことを認識しました。人が考えることが感じることを決定していることを発見しました。人が感じることがその人の行動を決定しているのです。背後に考えのない行動はありません。もし、あなたが気落ちした行動を取るのであれば、それはあなたが気落ちしているからです。あなたが気落ちしているのは、何か事を落ち込んで考えているからです。鍵は、あなたの考え方から始まるのです。感覚と争うことはできません。

あなたの人生を高速艇のようなものと言ってみましょう。東へ向かうと自動操縦をセットします。急に180度向きを変えて西へ行きたいと考えます。あなたは人生を変えたいと思うのです。二つの方法があります。一つは、ハンドルを握り、反対方向へ方向を変えようとしっかりと力づくで抑えることです。自動操縦は東へ向かおうとしますが、あなたは西へと力を掛けます。あなた自身の力で反対へ行こうとがんばります。ずっとハンドルを握り続ける時そこに緊張があるので疲れてきます。すぐにハンドルの力の行くに任せ、前の方向へと戻ってしまいます。路針変更はかないません。

聖書は心の中から変え始めるように言っています。―――“こころの一新によって自分を変えなさい” 自動操縦を変えましょう。あなたがそれを変えたら、方向は簡単に変ります。

あなたの自動操縦はなんですか? それはあなたの人生における会議事項(重要事項)なのです。考えはじめなければいけないことの一つは神様のことばです。ヨハネ17:17 17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

変えることを願うのであれば、こころをみことばで満たすことを始めましょう。詩篇1;1−3 1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

 

 1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

 

 1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

私たちが神のみことばを黙想するとき、それが私たちの心に入り変えていきます。

ピリピ4:8 4:8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。

 詩篇119:15,16 119:15 私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。

 

 119:16 私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。

ヨシュア1:8 1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

神様のことばを考えることをはじめましょう。もし、あなたが日々の聖書の時間を持ち合わせなければ、あなたの人生の変化はあまり見られないでしょう。少なくとも見られるはず以上のものではないでしょう。  

二番目の選択は、瞬時瞬時、聖霊様に頼っていくことです。

ここに、神様の力が働きます。イエス様はヨハネ15;4,5においてこのことをすばらしく表現しておられます。15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 

 15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

 

枝は、完全にぶどうの木に頼っています。ぶどうから切り取られたら、ぶどうの実も結ばないし、何の意味もないものになります。枝はそれだけでは実を結ぶことはできません。繋がっていなければなりません。イエス様は同じように神様に繋がるように言われているのです。 プラグが差し込まれていなければいけません。神様は力をお持ちです。しかし、それは自動ではありません。神様はあなたに実を結ぶことを強要されるわけではありません。聖霊様に満たされ、働いてくださるようにと任せることを選択するのです。

あなたが聖霊様により頼んでいることを知るのは、どのようにして知るのでしょうか? あなたの祈りの生活をチェックしてみてください。神様に委ねて祈って言うどのようなことについても。神様に委ねていず、祈っていないことについてどんなことでも。神様に委ねるとはどういったことでしょうか? 絶えず祈ること意味しています。あなたの決定、感覚、人間関係、限界、収穫、すべてのもの、。神様に祝福して欲しいことは何でも、あなたが祈り求めること。神様はいつも変らず共にいてくださることに気がつくでしょう。神様の臨在を訓練し、続けて神様との語らいをすることです。あなたがしているどんなことにでも神様を入れ込むのです。神様にはどんなことでも、何でも話すのです。これが聖霊様に委ねるということです。

三番目の選択は、環境にどのように反応するかを選択することです。

神様の源とあなたの選択には相対するものがあります。 神様はみことばにその源を持っておられます。:あなたはそれを読むべきです。神様は聖霊様をお持ちです;あなたはその方に委ねることを選択するのです。 神様は環境を使われます;あなたは環境に反応することを選択するのです。

ヤコブ1:2−4 1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

 

 1:3 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

 

 1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

クリスチャンの生活はたった一度のイベントのようなものではありません。続く過程のある出来事なのです。 生まれ変わり、成長する必要があり、開発され、与えられた救いを達成する必要があります。努力するわけではなく、係わりを持っていることを達成するのです。それを開発するのです。筋肉をより使えば、より筋肉は強くなります。成熟した品性が出来上がっていくのがあなたの人生においての過程なのです。あなたの人生におけるキリストらしい品性、それが神様のゴールです。

ヤコブはあなたの人生への応答はあなたが選べるのだと言っています。

あなたは来週、もしくは来月、来年何が起こるかを選択することは出ません。私たちにはその選択はありません。しかし、どのように応答するか、のように反応するかは、選択できます。

実際人生で、本当に問題になるのは、あなたに起こっているそのことではないのです。あなたに起こっていることが最もあなたにとって大事なことではないです。あなたに起こっていることは、あなたの最も問題になっていることなのです。それが選択です。  ローマ5:3,4 5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

 

 5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです

 

“品性”が二回出てきます。これが基本で、最終のゴールです。ローマ書5章では、“信頼に足ることを証明した何か”という意味です。 テストにパスしていることです。私たちがそれに答えることを選択するとき、品性を生むのです。

神様が私たちの人生において御霊の実――愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、を生み出してくださる方法はまずみことばの中に教えてくださっています。そしてそれを聖霊様によってあなたが開発することができるように力をくださいます。そしてその時、全く反対の立場に置かれます。あなたは愛を学びたいと思いますか? 神様はあなたの周りにあなたが愛することは簡単にはできない人々を置かれます。愛すべき、親切な、良い人を愛することは簡単です。喜びを学びたいですか? あなたを悲劇的なことに置かれ、喜びが幸せより難しいことを学ばせてくださいます。平安は? 問題、心配事のないときに平安であることは簡単です。平安は混沌の中で学びます。善意は? あなたが悪い思いに駆られるような状況にも置かれます。神様は私たちの成長の助けになる様にと、反対の状況に置くことを許されます。

あなた自身の何を最も変えたいと思いますか? 変化の力は神様の力と、あなたの選択から来ます。正しいことをする選択をするとき、神様は力をくださいます。神様があなたにして欲しいと思われることに、それをする力をくださいます。たとえどんなことでも変えたいと思うことを神様との共同作業にするのです。あなたが達成しようとすると、神様は介入してくださいます。神様はあなたが変ろうとするその志も、力も、能力も、与えることを約束されています。みことばや、御霊を通してそれをなしてくださいます。神様は力を与えあなたの人生を変えてくださいます。 しかしその初めは私たちの選択です。

 

祈り

天のお父様、あなたは、私達の内に御霊の実がなることを望まれています。私たちにはそれが欠けています。 思いと心を開き、イエス・キリストの御名によってそれぞれが、そしてこの教会がこれらの実を開発するように祈ります。あなたのみことばで生き、あなたの聖霊様のうちを歩むことを教えてください。また、私たちが誘惑に会わず、試練や困難、テストを通して信仰が育ち、私たちの人生に御霊の実が成るようにお招きします。私たちの人生はあなたのものです。あなたは私たちを十字架のイエス・キリストの死とその血で買戻し贖ってくださいました。あなたのみことばに同意することを選択します。 聖霊様に従い、委ねることを選択します。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制でもって環境に反応することを選択します。 イエス・キリストの御名によって祈ります。

 

This sermon is based, in whole or in part, on a Rick Warren sermon.